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2024/04/07

研究室の引っ越し(2度目のIターン就職)

 人生というのは何が起こるか分からないもので、このたび2度目のIターン就職をすることになりました。

 

異動となると家と研究室の2件分の引っ越しをしないといけなくなるわけですが、特に厄介なのは研究室の引っ越しです。6年前のほぼUターン就職では、年末近くに公募が出てから年明けすぐに面接を経ての教授会承認という流れだったため、諸々の作業を年度末近くにドタバタとやることになりました。家と研究室の両方の引っ越しを一人で1ヶ月程の期間にやりきるには無理があるわけで、研究室の撤収作業は半分もできませんでした。そのため研究室は夜逃げ状態で出ていき、前々職の同僚の皆さんに多大な迷惑をかけることとなりました。1

 

今回の異動は早々に決まっていたため、研究室の撤収もさらっとできるもの…と思っていました。が、現実というのはそんなに甘くはありません。前任校では通常業務に引き継ぎ作業も加わって慌ただしくなたり、調整の問題で搬出・搬入の予定がたてにくかったり…で、結局、片付けや梱包の作業や業者の手配がなかなかできませんでした。今回の引っ越しで特に大変だったのは、後者の点です。学校によっては新任教員用の荷物の仮置き場が確保されていたりするかもしれないけれど、 前任者の荷物の搬出と清掃作業の後に後任が引っ越してくるという心太方式になるのが一般的な気がします。そうだとすると、内定が出る時期がいつだろうと研究室の引っ越しはギリギリにならざるをえず、そんなスケジュールでも対応できる方法をとるしかないのでしょう。

 

そんなこんなで、今回の研究室の引っ越しでは宅急便を利用しました。大量の荷物を見積もりといった手続きなしで比較的リーズナブルに長距離で送ろうとすると、宅急便しか思いつかなかったのです。宅急便での複数個輸送で対応できたし、それが妥当なのだろうと思います。

が、落ち着いてみると、サマリーポケット(宅配型のトランクルームのサービス)のようなサービス2をもっと駆使すればよかったかも…と思ったりしています(家の本などは早めに梱包して預け、引っ越し先に送るようにした)。一定期間は預けないと引き出しに追加料金がかかるのですぐに必要なものを送るのには適してはいませんが、長距離移動になる場合にはこうしたサービスを使うほうが割安になるかもしれません。

 

次に長距離の引っ越しをするとしたら定年退職をして田舎に戻る時のはずで、持ち物の多くを断捨離することになると思います。当面先の未来のことではあるけれど、その時になってあわてふためかないよう、家も研究室もモノの増やしすぎに気をつけながら暮らしていきたいものです。

 

 

 

 

2020/02/08

 就職時に受けたアドバイス

 大学教員2年目も自転車操業の日々でしたが、本年度の授業については試験やレポートの採点を残すのみ…というところまできました(ゼロから講義を組み立てるということをしなくてもよくなるので、4月からは自転車操業の度合いが少なくなると思いたい)。年度末になると行われるのが、定年を迎える先生方の最終講義。私の所属先でも、直属のボスの最終講義がありました。

 

内容は、大学教員としての日々と研究者としての日々とを振りかえるというもの。その中でも印象に残ったのは、就職が決まった際に指導教官の先生からいただいたアドバイスについてのエピソードでした。そのアドバイスとは、

 

  1. 年に3本は論文を書く
  2. 少なくとも3年は移動をしない
  3. 仕事は断らない

 

の3つ。これらのアドバイスは30年以上前のもので、時代の変化に伴って、1と2は従うのが難しくなっていると言わざるをえません。1についてはボス自身が「独法化の前の時代には、夏・冬・春の長期休みを使えば可能だったんですよ…」と言っていて、授業期間外にあんなことやこんなことがどんどん入ってくる現在の状況では、超人的な気力体力がないと難しいでしょう(とはいえ、その心意気は忘れずに研究をしたいところ)。任期付きの案件が増えており、採用条件によっては2はかけられないものになっています。そんななか、3はアドバイスとしてまだ有効なのかもしれません。何を隠そう(隠さんでもいいことだけど)、専任ポストを得て東京を離れる際、3のアドバイスを師匠からかけられました(うちの師匠の場合、「仕事」というのは学会などの研究がらみのものを指していたような気もするけれど…)。私が専任になれたのは10年ほど前で、その頃と比べて高等教育機関をめぐる状況も学会をめぐる状況も変わってきているけれども、どんな状況でも仕事から逃げる人はいるはずなので、案外とアドバイス3は有効であり続けるかもしれません。

 

いい年になっているので自分の健康状態等々と天秤にかけながら仕事を選ぶことも覚えるべきではないかと思わないでもないけれど、変に引っかかるものがないかぎり、((直観的に引っかかりがある場合には断った方がいいということを身をもって学んではいる。))声をかけてもらえた時には引き受けていきたいものだと思います。安請け合い、万歳!

2018/04/02

Iターンから(ほぼ)Uターン

 気がつけば4月も3分の2も過ぎていました。実は、Iターンして9年半勤めた高専(=高等専門学校)から実家近県の大学へとほぼUターンをしました。異動をして環境が大きく変わったこともあり、いつもに増してアタフタとしています。

 

異動をしたのは、自分にとって馴染みのある街(故郷か、入院生活を送ってきた東京か)に戻りたいという思いが消えなかったこと、専門に関わることを教える立場になりたいという思いが強まったことがあります。

 

学位を取ってから、「いつかはUターンを…」と思いながらjrec-inの公募情報を眺め、目ぼしい情報を見つけて書類作成に着手をしても「この程度の業績じゃ、無理して出したところで…」と諦めたりしておりました。が、今回の公募は、「実家近くで専門ができる」という理想のポストでした。応募書類の提出期限が香港出張と重なる(=ということは、出張に伴う授業変更も入ってバタバタしていた)ためにしんどかったのだけれど、「アプライをしなかったら絶対にひどく後悔する」と考えてダメ元で応募をしました。その後、年末に連絡を受け、年明けの連休時に面接をして採用が決まったという次第です。教授会で承認されたとの連絡を受けたところで、高専に辞意を伝えました。毎年誰かしらが転出していくものだからか(と、思いたい)、あっさりと受け入れられました。通常業務と並行で、異動先の手続きやら引越しやらをしなければならず、3月は本当にもうてんやわんや。高専については、やるべき業務優先で動いて研究室の撤収まで手が回らず、夜逃げ状態で出て行くことに…(撤収作業は仲の良い職員さんにお願いして、どうにかしてもらえました)。

 

夜逃げ状態で後にした研究室から送られてきた荷物の整理などがあるため、落ち着きなく過ごしています。落ち着いたところで見えてくるものもあることでしょう。とはいえ、どこに行っても「うーーーん」としょっぱい顔になってしまうことはあるはずなので、何かあった時には「桃源郷なんて、ない」と言い聞かせつつ、にこやかに、ほがらかに、やっていきたいと思います。

2015/01/25

求職にまつわる謎

 研究期間の終了にともなう職場復帰のため、引っ越しでバタバタしている今日この頃。荷物の搬入も終わってつつがなく生活できるようになるかと思いきや、洗濯機のところだけ水道が出ない、テレビがつかない(そもそもアンテナがついていないことが判明)、呼び鈴が機能しない…等々の不測の事態への対応におわれております。まあ、そのおかげで、復帰を前にふさぎ込む…ということがなくなって幸いではありますが。

 

荷物が届くのを待っていた頃、就活に関することをつぶやいておりました。

 

[https://twitter.com/heppokoteacher/status/558044750130196480:embed#コマあたりの給与を知らされぬまま非常勤に行かねばならないというのは解せなかった。どうやらそういう風習のようだし、そんなことをワーワー言うのはアカデミックではない家の出の自分くらいのものなのだろうと思えて聞くこともできなかった。でもどう考えても、給与などの条件を提示しない方が変だ。]

[https://twitter.com/heppokoteacher/status/558046208770703362:embed#条件が分からぬまま仕事につくというのは、非常勤講師だけではない気がする。専任の給与体系は調べることはできるけれど、私自身は、自分が何号級で評価されたのか分からぬまま就職した。]

[https://twitter.com/heppokoteacher/status/558046599981834240:embed#よく考えなくてもお金は大事なものなのに、おかしな話だよなぁ。]

[https://twitter.com/heppokoteacher/status/558054120222117888:embed#勤務校で就職指導をしている先生が、「給与だけではなく、福利厚生も確認させる」と話していたことがあった。それを聞いて、そういうことをするのが普通なんだろうに…と思った。自分の就活では「とにかく専任(できる限り任期なし)」ということしか考えられなかった。]

[https://twitter.com/heppokoteacher/status/558054240497958913:embed#自分はどんだけ追いつめられていたんだ…と、思う。]

[https://twitter.com/heppokoteacher/status/558057057715499008:embed#自分のスペックで応募できる任期なしの専任ということしか考えていなかったのに、拾ってもらった学校は、よいところであったと思う(どうにかならないかと思うことがないではないが)。運が良かった。]

 

つぶやきながら、「就職活動中は、留学経験も博士号もない自分をやとってくれるところならば…」ということしか考えていなかったのだなぁ…と、当時の自分を振り返りました。就活をしていた頃は、免除職((入学年度の関係でこの制度がギリギリ適用されたのです))に就かなければいけないという思いにとらわれるなど、とにかく追い込まれていたのだなぁ…と。

 

初任給など就職してから、学生向けの求人情報に初任給や福利厚生の情報があるのを見て、「あらららら、自分はこういうことを全く考え(られ)ぬまま就活をしていたなぁ」と思ったものです。常勤であれ非常勤であれ、給与の目安も知らぬまま求職をするというのは不思議な風習という気がしてなりません。公開しても不都合があるとは思えないんだけどなぁ…。

2008/12/23

わたしの就活

 週末の遠征がこたえているのか、思いっきり朝寝。のそのそと起床し、とりあえず洗濯したり、届いたばかりのiBookにソフトのインストールをしたり。

とりあえず授業がひと段落したことだし、ここいらで今年のこと、とくに就活のことを振り返っておこうと思います。人文系の院生の日常というのは案外世に出ていない(というわけで、入院してみて吃驚仰天したりする)から、自分のようなへたれ院生の生態の記録を残すというのもアリかもしれないというのが、ブログを始めるきっかけでした。そんなことを思い返し、リアルタイムでは書けなかった就活のことをここいらで書いておこうと思います。

本格的な就職活動に着手したのは、昨年度のことでした。それまでも出せそうな公募があれば応募するということはポツポツとやっていましたが、「仕事の前にまず論文」という雰囲気におされ、思い切ったことはできていませんでした。しかし、D3の繰り返し*が使えなくなる時が迫ったことで、また、生活のため非常勤に明け暮れるうちに諸々のことが行き詰まり気持ちも不安定になったことで、「生活の安定なくして…」と考え、就活へと大きく舵をきることにしました。

就活を本格化させるにあたって心に決めたのは、「研究職」で「強制退院から2年以内」に内定を得ることでした。「強制退院から2年」という年限は奨学金との兼ね合いによるもので、このしばりから、最後の方は「研究職」が「免除職」に変わってしまっていましたが(そのため中高の教員も射程に入れ、今年の夏は私学適正も受験予定でした)。

そのような決意のもと、毎日JRECのホームページで公募情報をチェックしては出せそうなところに応募するということを繰り返す日々が始まりました。博士号を持っていないので応募できるところは限られていたし、留学経験もないので応募できても分は悪かったのですが、それでもともかく公募書類を書き続けました。

そうこうするうちに、去年の夏に初めて面接に呼ばれました。この時は教育よりも研究に対する希望を語りすぎ、会場はどん引き。「教育機関を取り巻く昨今の状況を理解されていないのでは…」という趣旨のことを言われ、「研究のことは聞かれるまで喋らない方が賢明なのか…」と思いつつ、帰還。その後も応募を続け、たまに面接に呼ばれては玉砕ということ(3月末、5月頭、6月)が続きました。

自腹の旅費で首が回らなくなりつつあった7月半ばに、また面接の連絡。旅費と非常勤の期末試験の心配をしつつ、模擬授業の準備をととのえ遠征したのが7月末。しどろもどろにながらも、どうにかこうにか面接を終了。「緊急連絡用に携帯の番号を教えてもらえませんか」と事務の方に言われた頃には、開始から1時間半は経っていました。面接で聞かれたのは、教育活動に関すること(英語教育や学生対応)、研究に関すること(研究テーマや博論、学校の性質上研究に関係することが授業ではやりにくいこと)、人物評(とくに事務能力のこと)、学校についての知識など。これまでの面接と違っていたのは、事務処理能力について単刀直入に聞かれたことと、英語教育の業績がないとケチがついたこと(といっても、公募の条件には入ってなかった)。

玉砕した時に得た教訓を思い出しつつ面接を乗り切ることはできたけれども、英語教育研究の業績がないという今さらどうにもできないことを言われたため、「無駄足になっちゃったな」と思いつつ、帰還。バイトを探さないと就活ができないなぁ…とか、明後日の試験を作んなきゃ…とか、私学適正の勉強も始めないと…なんてことを、新幹線にゆられつつぼんやり考えていたところ、携帯に内定の連絡が届いたのでした。

私の就職活動はこうして幕をおろしたわけですが、「強制退院から2年以内で絶対に決める」という執念が効いたのだと思います。活動の最中は先が見えなくて落ち込むことも多々ありました。しかし終わってみれば、二十数回の応募で内定を得ることができたので幸運だったし、この幸運は生来の執念深さ(モテ関係ではこれが常に裏目に出るわけですが)が引き寄せてくれたのかもしれません。とにかく投げ出さなくてよかった。それが就職活動を終えてみての実感です。

*「課程博士を!」という趨勢もあり、私の入院先では休学や留年を使ってD3を繰り返すことが慣習化しておりました。